第一章
〜1話〜


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1話―毒01


 静けさに満ちた薄暗い森の中、樹木達の太い根が地表から盛り上がってはびこる足場の悪い一帯に、ひときわ目を引く一本の巨木がそそり立っていた。その巨木の幹《みき》には、人が一人通れるほどの黒い洞《うろ》がぽっかりと開いている。中は二畳ほどの広さがあり、中央に厚く敷き詰められた枯れ草の上で人間が一人、毛布に包まり眠っていた。

 金がかったブラウンの前髪が汗ばんだ額にへばりつき、血の気のない相貌にある青紫の唇が浅い呼吸を繰り返す気息奄奄の人間――シャーロンは丸めた身体を寒気に震わせて未だ意識を取り戻せずにいた。

 そこへ生き物の軽やかな足音が近づいてくる。入り組んだ根の上を慣れた跳躍と歩行で進んできたのは、不可思議な容姿を持つロネだ。ロネはシャーロンが眠る巨木へ辿りつくと、忍び足で洞の入り口に近づき慎重に中の様子を覗き込んだ。黒い直立耳は頭へ引っ付くほど後ろに伏せられ警戒を表している。


「まだ寝てる」

 森で行き倒れていた人間――シャーロンの持ち物を物色したものの、食料らしきものなど何一つ発見できなかったことに失望したロネは、次に虫の息ほどしかないシャーロンの始末に悩んだ。その結果――。


「逃げようって思ってたのに……。なにしてんだろ、ボク」


 己自身にうめいたロネはシャーロンから視線をそらして体を反転させると、巨木の幹に背中をあずけてやおらしゃがみ込む。ロネの黒い瞳には後悔混じりの憂悶《ゆうもん》が宿っていた。


「”レイヴァン” に怒られるかな? 人間を助けるなんて……」


 過去、この森に人間が迷い込んだことはいくどとあったのだが、その度に人間は森の生き物を虐殺したため、森の領主”レイヴァン”に追放されてきたのである。 ゆえに、森に住む者が暴虐非道の人間を忌《い》み嫌うのは当然で、ましてや救ってやる義理など微塵もない。


(人間は森のみんなの敵……。この人間もともと死にそうだったし、あのまま放っておいても死んでた。もしかしたら、他の動物に見つかって食べられてたかもしれないんだ)


どちらにしろ、この人間は死んでいた。ロネが助けなければ――。


「はぁ……」


 ロネは深いため息をついて自ずと己の手のひらをじっと見つめた。五本の長い指と細い手首、体毛がほとんど無く薄橙色《うすだいだいいろ》が剥《む》き出しになている柔らかい腕。それらをしげしげと眺めていた眼を薄い瞼に隠し、ロネはおもむろに洞へ回顧《かいこ》する。そして、青白い顔で眠り続けるシャーロンへ静かに歩み寄った。


(よく眠っているし、大丈夫だよね?)


 そう己に言い聞かせて注意深くシャーロンの真横へ座ったロネは、右手でシャーロンの包まる毛布の端をゆるりと掴んでわずかにめくる。シャーロンは真新しい深緑の服に着せ替えられていた。――この服の入手方法はまた別の話になるが――シャーロンが着ていた血まみれの服はロネが脱がして焼いてしまったのだ。というのも、ロネの寝床――つまり、この樹洞《じゅどう》が血臭くなるのを危惧したのと、ロネ自身の鼻が曲がりそうだったからである。幸い、シャーロン自身にはこれといって目立った外傷はなく、新たに着せた服が汚れる心配はなかった。しかし、それがどういう意味であるかを重視できるほどロネには能がない。


 さて、ロネは服の袖よりのぞくシャーロンの腕と自分の腕を見比べて、感慨しくため息をこぼした。続いてシャーロンの手首を恐る恐る触ってみると、その感触は体毛に覆われた森の動物とも鱗をまとう沼の魚とも違う――森の中でこれと唯一類似するものといえば。


(ボクの肌と同じだ!)


 その瞬間、緊張でこわばっていたロネの表情が徐々にやわらいで、頬が高揚感から紅潮していく。


「ねぇ、キミはみんなにひどいことしない? あのね、レイヴァンは掟《おきて》を守れば追い出したりなんてしないよ。キミが今までの人間みたいにひどいことしないなら……きっと」


 目の前で眠るのは森の領主が追放するほど残虐性の強い生き物である ”人間” だ。ロネとて人間のたびかさなる悪行に少なからず不審と恐怖心を持っている。けれど、ロネは人間を完全に嫌うことが出来なかったのだ。


「ボクとキミはよく似てるね。なん――……えっ!?」


 その時だ。ロネが触れていたシャーロンの手首がぴくりと動いたかと思うと、ロネの右手素早く掴かんだのだ。思いもよらないの出来事にロネは焦る。”起こしてしまったか?” と杞憂したが、シャーロンの双眸《そうぼう》は閉じられたままで意識があるとは思えない。けれど確かにロネの手を掴むシャーロンの握力は非常に強く、容易には逃れられそうにもない。それを悟った途端、ロネは急に恐ろしくなった。


「――は、放してっ!」


 掴まれた手を振り払おうとロネは手首をひっぱったりひねったりと必死に抵抗する。もう先ほどの感慨しい気持ちも余裕もない。じきに死ぬのなら脅威を受けることはないだろう――と、シャーロンを発見したあの時の予断《よだん》をロネは呪った。森の誰よりも己に似ているから興味を抱いてしまうがそれも所詮は好奇心の一斑《いっぱん》に過ぎない。実際、ロネの中にも ”人間” への恐怖心があり、くすぶるように危難を囁いているのだから。


「ひっ!?」


 懸命な拒絶の甲斐もなく、非力なロネはシャーロンの剛力に負けて毛布の中へと引きずり込まれ、すぐさま屈強《くっきょう》な両腕に後ろからしっかりと拘束されてしまった。近すぎるシャーロンとの距離に緊張と脅威が一段と高まって、ロネの心臓は壊れんばかりの激しい鼓動を打ち鳴らす。けれど憂《う》き目はそれだけにとどまらない。続けざま、ロネは首筋にひどく冷たいものが触れたのを感知して息を呑んだ。頬だ――シャーロンのすべらかな頬がロネの首筋にすり寄ってきたのだ。


「ぎゃううう!!」


 ロネの顔色はもう真っ青。平たくなった黒い伏せ耳はびりびりと震えて黒い瞳が恐怖の色に染まり揺らめく。――ところが、


「……寒い……」

「!?」


 切迫するロネの耳に届いたのはなんとも弱弱しい音色であった。消え入るような小声を聞いたロネは、目を丸くして伏せ耳をすっと立たせると視線だけで背後を気にして息を呑む。青白い顔を苦しげにしかめたシャーロンは、瞼《まぶた》を固く閉じたままロネの首筋から伝わる熱にすがっているようだった。その姿は畏怖《いふ》の対象とは思えないほど脆弱《ぜいじゃく》で、ロネの胸でざわついていた警告が遠のいてしまった。

 ロネは逡巡《しゅんじゅん》したのち、ぎこちなくうつむいてぽつりとつぶやく。


「冷たいよ」


 ロネの首筋と背中に伝わる冷感がシャーロンの体温の低さを物語っていた。
 こんなにも冷え切った身体では、もう長くはないかもしれない。


「やっぱり、キミは死んじゃうの?」


 ロネは寂しそうに瞼《まぶた》を伏せて、己を抱きしめるシャーロンの腕をそっと撫《な》でた。






 生き物が身を寄せ合って眠るのは寒さをしのぎ仄《ほの》かな安らぎを願うからなのか? 誰かの体温を感じて眠ったのははじめてのことだった。脅威がまどろみに溶けて安穏へと変わってから、どのくらいの時間が経っただろう。ロネの背中にあった気配がいつの間にか消えていた。


「――う?」


 ロネは眼をこする間もなく跳ね起きて、心急《こころせ》くまま周囲を見渡した。そこは見慣れたねぐら。ロネが自分で作った枯れ草の寝床だ。いつもならロネ一人しかいない場所なのだが――。


「あれ? どこにいったの?」


 居ないのだ。先ほどまでロネと一緒に寝ていたはずの人間が。ロネは胸騒ぎを覚え、考えるより早く洞の外へと飛び出していた。




*  *  *





 樹木達の根がはびこる一帯をぬけると今度は水気を含む柔らかい場所へと踏み込んだ。周りは草むらや太い木々が競うように茂っておりうっそうとしている。シャーロンは見たこともない深い森の中で漫然《まんぜん》と立ち尽くしていた。


「ここは……?」


 当惑気味につぶやいて追憶するのは目覚める前の記憶である。
 母国・デュリアの討伐軍を撃砕して馬を拝借《はいしゃく》したシャーロンは、再び荒野をさまよった。馬の足を借りても街はおろか水場さえ見つからない日が続き、ついには食料も尽きて体力の限界が近づいていた最中、シャーロンの前方に霧に包まれた森が突如として現れたのだ。しかし、それを最後にシャーロンの意識はふつりと途切れてしまった。

 次にシャーロンの意識が浮上したのは見たこともない樹洞の中だった。しかも、己が寝ているかたわらに黒い三角の直立耳と毛深い尻尾を持つ生き物が毛布をかぶって眠っていたのだ。毛布のおかげで後姿しか見ていないが、シャーロンが指針を固めるには十分な状況であった。


「あれは、獣人《じゅうじん》……?」


 神妙に独白《どくはく》したシャーロンは、未だ拭えない疲労感と空腹に霞む視界を回復させるためかぶりを振ると、後方へ首をひねって今しがた出てきた巨木の洞を睨みつけた。


(はっきりとはわかりませんが、獣人なら逃げなければ……。万全の体制なら容赦はしません。しかし、衰弱したこの体で獣人と一戦交えるのはむこうみずなだけです)


この世界は大昔より、魔獣を主《あるじ》とする獣人と人間達が幾多《いくた》の争いを繰り返していた。その起源は古く、”互いに築き上げた歴史の中で、人間の敵は魔獣であり魔獣の敵は人間であるという状勢は明確なもの” であると、 ”帝国” に生まれた者は皆そう教えられ、育てられる。


「低級の獣人ごときにっ……!」


 シャーロンは綺麗な顔を悔恨《かいこん》の念にゆがめた。肩書きに未練は無いが、元は帝国屈指のガーディアン――デュリア族の王族であった己が易々と低級獣人の捕虜になるなど。 不本意な自尊心を歯痒く思いながらシャーロンは左腰に吊った片手剣の柄を恨めしく握りしめていた。


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