第一章
〜1話〜


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1話―毒03



「うっ……うっ……」


 あふれ出た涙で揺れる視界の中、シャーロンの美しい紺碧にロネは己の悲惨な姿を見つけた。シャーロンは笑っている――ロネの生殺与奪の権を握り、みとれるほど凄艶《せいえん》な微笑みを浮かべている。シャーロンにとってロネを殺すことなど虫を踏みつぶすのと同じくらい取るに足らないことなのだろう。


(もう……だめだっ!)


 ロネがシャーロンに首をへし折られる結末を覚悟した、その時だった。


「こんなふざけた身なりをして――」
「へ?」


 シャーロンが苦く呟いた瞬間、ロネは絞殺の危難とは別の嫌な予感を覚えて戦慄する。ロネの喉を絞めていたシャーロンの両手が離れたかと思うと、今度はロネの頭部にある直立耳をむんずっと掴んできたのだ。


「こんなもの……!」
「ぎゃああああ――――!!!!」


 喉を焼くようなロネの絶叫が閑寂《かんじゃく》な森を震撼《しんかん》させる。直立耳の根元とつながる頭の皮膚が一緒に引っ張られる激痛にロネは目を剥き出して激しく悶えた。


(ここここっこんな死に方、ヤダぁ――!!)


 同じ惨劇なら、いっそ一思いに首をへし折られた方がマシかもしれない。たとえ身体のあらゆる部位が己の存在を忌《い》むべきものとする原因だとしても、それでもロネにとっては大切な体の一部なのだから。ロネはシャーロンに馬乗りにされたまま無我夢中で手足をばたばたとばたつかせると、丹田《たんでん》に力を込めてぎゃんぎゃん吠えた。


「痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!! 放して! 耳がちぎれちゃう! ボクのっ、ボクの耳がっ……!! 信じられない! 殺そうとするだけじゃなくて耳をちぎろうとするなんて!!」
「――っ!!」


 窮鼠猫を噛むが如く、ロネの激烈な剣幕にシャーロンが一瞬怯んだ。その隙をロネは見逃さずシャーロンの胸倉に掴みかかり、そのままの勢いでシャーロンを大地へと押し倒した。形勢逆転だ――今度はロネがシャーロンに馬乗りになってシャーロンの胸倉を怒り任せにガクガクと揺さぶり、耳を無碍《むげ》に引っ張られた怨嗟を思い切りわめいた。


「よくもボクの耳を引っ張ったな! キミに尻尾はないけど、耳は付いてるだろ!? 引っ張られたら痛いだろ!?」
「く……! このっ、獣人気取りの変人のくせにっ……! 私を馬乗りにしたことを後悔させてあげます!!」


 所詮はまぐれ当たりの好機。ロネの逆襲はここまでであった。難なく正気を取り戻したシャーロンは躊躇無く惨憺《さんたん》な怒気をまといって峻烈《しゅんれつ》な宣言を放つと同時にロネの両手首を捕まえて苛酷《かこく》な握力できりきりとひねり上げる。


「痛い痛い痛い痛いっ!!」


 両手首の苦痛を訴えてきゃんきゃん鳴き叫ぶロネ。だが――。


「がうっ!!」
「ぐっ……!?」


 ロネがシャーロンの左腕に犬歯を突きたて思い切り噛みついた。ロネの二度目の反撃にシャーロンはいっそう憤り、無遠慮に左腕を振り回すのだがそれでもロネは一向にシャーロンからはなれない。鼻の上にしわを寄せて猛犬のごとく「グルルル!」と喉を低く唸らすロネの威容《いよう》は、泥棒に噛みつくドーベルマンさながらだった。


「貴方は本気で自分を獣人だと勘違いしているのですか!?」


 シャーロンは腕ごとロネを地面へ叩きつけ再び四つん這いの体勢になってロネを見下ろすと、右手でロネの襟元を掴んでロネに噛まれている己の左腕とを真逆に引っ張る。


「放しなさい! 本当に殺しますよ!?」


 シャーロンが屈辱と怨望《えんぼう》の混じる声色でロネを恫喝《どうかつ》するも、捨て身の覚悟でシャーロンに噛みついたロネは何を言われても口を放す気はないようだ。


「このっ、私の……腕を放せっ!!」
「――あっ!?」


 険をはらんだ咆哮《ほうこう》と共に、シャーロンがロネの犬歯から無理やり己の左腕を引きはがす――激しい揉み合いの末、ロネの服が耳障りな音を立てて襟元から腹まで裂《さ》けて、服の下から現れたロネの素肌にシャーロンの左腕から噴き出した鮮血《せんけつ》が飛び散った。


「!!」


 直後、その光景にシャーロンがびくりとこわばる。
 ロネがシャーロンの下で痛めた顎《あご》を両手でかばい、「あうあう!」と痛みにもがいているが、シャーロンの興味はロネの苦しむ姿ではなく――。


「……これはっ」


 ロネに噛まれた左腕の患部から温かな血が流れ落ちてゆくが、怪我のうずきも払拭するほどの衝撃なのだろうか。シャーロンはこれまでで最も混迷した表情を浮かべ、ロネをじっと見下ろしていた。





「貴方は……まさか……」


 破けた服から見えたロネの肌に、シャーロンが戸惑いながら片手をのばしかけた時だった――。どこからか全身の毛が逆立つほどの剣呑《けんのん》を感知して、シャーロンはぴたりと動きを止めた。


「……っ!?」


 シャーロンが異様なその気配に注意を向けた次の瞬間、静寂な森に似つかわしくない強風が吹き抜けて辺りの木々と草達が空気の渦に巻かれバサバサと葉を鳴らして踊り狂う。

 直後、それは起こった。


「うわっ……!!」


 悲鳴と共にシャーロンの体が ”何か” に弾かれて空中を高く舞う。

 シャーロンを襲った ”何か” とは、地中に潜っていた樹木の太い根――それが鋭い槍のごとく地面から飛び出し、ロネに馬乗りとなっていたシャーロンを容赦なくなぎ払ったのだ。シャーロンの体は弧を描いて近くの大木の幹に強く背中を打ち付けると、今度はその体が地上へ落ちる前に周りの木々の枝が、放たれた弓矢のように数十本ほど飛んできてシャーロンの服の裾を次々と刺し、大木へ貼り付けてしまったではないか。

 シャーロンの悲惨な様を、大地で仰向けになったままのロネが唖然と傍観《ぼうかん》していた。


「あ、ああ……」


 やがて、呆気に取られたロネが上半身を起こし、地上から数メートルほどの位置で大木に貼り付けとなったシャーロンを見上げて青ざめる。大木に貼り付けられたシャーロンはもうぴくりとも動かない。土気色の相貌をうつむかせ、薄い瞼《まぶた》を苦しげに閉じていた。この不可思議な仕業が誰のものか、ロネにはすぐに察しがついた。


「レイヴァン!! 放してあげて! このままじゃ……死んじゃうよ!」


 シャーロンの哀れな姿にひどく焦ったロネが頭上の緑の暗幕へと叫けんだ。閑寂を取り戻した深い森にむなしく響く懇願を心許《こころもと》なく聞きつつ、ロネは沈黙する相手をじっと待った。すると、ロネの居る場所より数メートル先の薄暗い獣道から大地を力強く踏みしめるゆるやかな足音が聞こえてきたのだ。獣道からただよう厳然《げんぜん》な気配に、ロネは自ずと息を呑む。

 そこへ姿を現したのは威風の根源である生き物――五メートルほどの身丈に全身が漆黒の体毛で覆われたそれは、犬か狼に似た獣紛《けものまが》いだった。”獣” と言い切れないのは、その巨体を人間のように二本足で支えており、精巧で重厚な甲冑《かっちゅう》と黒いマントを整然とまとっているからである。


「レイヴァン」


 ロネがその人物の名を神妙に呼ぶと、漆黒の獣紛い――レイヴァンは頭部にかぶった冑《かぶと》から突き出た、ロネよりも立派な獣の直立耳を真っ直ぐロネの方へ向けた。レイヴァンの凛とした相貌には二つの怜悧《れいり》な銀の瞳がとても印象的に光帯びている。

 
「領主様ぁ――!」


 レイヴァンとロネが対峙する緊張の最中、今度は男の太い声が遠くから近づいてきてレイヴァンの後方にある草むらがガサガサと揺れた。それを見た途端、ロネがばつの悪い顔色で狼狽《ろうばい》する。


「ファルまで?」


 ロネが苦くうめいた直後、揺れていた草むらから大きな影がぬっと飛び出す。それはレイヴァンに酷似したもう一匹の獣紛い――だが、レイヴァンよりも体は一回り小さく、全身は茶色の体毛に覆われていて身なりは布の服と革製のブーツという貧相なものであった。

 さて、ロネが ”ファル” と呼んだその茶色の獣紛いは、レイヴァンを発見すると素早く彼の足元へとやってきて片膝を折ってうやうやしくかしづいた。


「あい確かに、領主様。忌まわしい人間の臭いがぷんぷんしております……」


 ファルは黒くて固そうな鼻先をひくひくとさせて周囲の臭いを嗅ぎ別けているようだ。しかし、その仕草はロネが居る方角へ向いた途端ぴたりと止まる――と、同時にロネが「ひっ!」と身震いをして頭を抱えた姿勢でその場にうずくまった。


「ん? ……あっ!! ああああああ!! このガキ! こんなところにいやがった!」


 嗅覚でロネに気づいたファルが、レイヴァンの横から顔を覗かせて喧喧と怒声を放った。


「ロネ! お前、また領主様の屋敷に忍び込んで、今度は毛布を盗っていっただろう!?」
「うっ!」
「しかも、暖炉に薪《まき》以外の異物を放り込んだな? 一体、何を燃やしやがった? 暖炉が臭くてかなわんかったぞ!」
「そ、それは……」


ロネの脳裏にファルが訴えた事情がよみがえる。――それはシャーロンが着ていた血まみれの服を、ロネが暖炉の火に放り込んだ真相だ。


「今日こそお前の所業を領主様に突きつけてやろうと思っていたが……」


 激昂のファルは目尻を吊り上げた眼光で大木に貼り付けにされたシャーロンをじろりと睨みながら――、


「お前、まさかこの人間をかくまって……んん?」


 けれど言い終わる前にファルの眼がぎょっと丸くなって静止する。次の瞬間、「ああ!!」と再びファルのうるさい叫喚が森に木霊した。力なくゆらりと立ち上がって頭を抱えるファルの様子にロネが不思議顔で首をかしげた。


「この間、領主様からのご所望で仕立てた服を忌まわしい人間が着ている?! しかも木の枝が刺さって穴まで開いているじゃないか!」
「ええ?!」


 ファルの解説にロネもファルと同じくらい驚愕しておろおろと慌てた。


「ご、ごめんなさい! 丁度いい服だったから借りただけなの。あとでちゃんと返そうと思って……」


 ロネが苦しい言い訳をすると、ファルは尻尾の毛をぶわっと膨らませ目玉をぐるりと剥《む》いて吠えた。


「嘘を付け! 借り物に穴を開けやがって! このガキ!」
「あ、穴を開けたのはボクじゃないよ!?」


 ファルからの糾弾に必死で弁解するロネ。しかし、両者はすぐに何かに気が付いてふと黙り込むと、四つの眼がおもむろに一点へと集中する。ロネとファルの視線の先に、厳《いかめ》しく寡黙《かもく》な森の領主――レイヴァンが依然として屹立《きつりつ》していた。


−第一章・1話 「毒」/おわり−


 

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