追跡者 白い森 青の前夜 第一章…>

い森 ――序章:ロネ――




 その森は真っ白な霧に包まれて、誰もを遠ざけるようにひっそりと存在していた。


 重なり合う樹木の枝が暗幕のように陽の光をさえぎるおかげで、森の中はいつも薄暗く、気温もさほど上がらずにひんやりとしている。けれど、暗緑《あんりょく》の森はあやぶむよりも不思議なほど安穏がただよっていた――。森の地表を覆《おお》うのは長い年月をかけ蓄積された柔婉《じゅうえん》な腐葉土。そこに多くの植物が繁茂《はんも》し、森へそそぐわずかな木漏《こも》れ日を求めて花が咲く。その甘い香りが森の明朗感《めいろうかん》を手伝っていた。




*  *  *





いつもより濃い霧が森におりていた朝のことだ。
ひんやりと冷たい真っ白な世界は褐色の樹木さえ淡くし、森に存在する全てのものが朝露に濡れそぼつ清涼感の中。


「馬だ! 馬の匂いがする!」


 突如、快活で甲高い声が森の寂寞《じゃくまく》を侵害して薄暗い森を軽快に駆ける生き物の気配がした。それは複雑に伸びた木々と草むらの間を縫うように通り抜け、繁茂する植物達が少し開けた平地へとたどりつく。

 そこに鳶色《とびいろ》の馬がぴくりとも動かず横たわっていた。


「生きてる? 死んでる?」


 身にまとう緑色の服をなびかせ、発見した獲物へと駆け寄る生き物。その姿は異様だった。相貌、胴体、四肢などは人間そのもの――中性的な容貌のため十代半ばの子供に見える――だが、頭部には人間と異なる三角の大きな直立耳が二つ。さらに毛深く黒い尻尾をぶんぶんと横に振って興奮を表していた。

 この奇妙な容姿の生き物 ”ロネ”は、ビー玉に似た黒い瞳で目の前に横たわる馬をつぶさに眺めていた。馬の鳶色《とびいろ》の身体にはいくつもの傷が残っていたが重度ではなく、命が尽きた帰結《きけつ》は馬のやつれた形相からみても、おそらくは衰弱死だろう。


「やったー! 肉だ! 肉だ!」


 矮躯《わいく》な身体で飛び跳ねて喜んだロネは、高揚の勢いのまま馬に目がけて跳躍――が、次の瞬間。なにかが派手にかちあう鈍い音と共に、ロネはあっという間に後方へ吹っ飛んだ。


「ぎゃう!?」


 吹っ飛んだ先――樹木の硬い幹《みき》に背中を強くに打ちつけ、地面へ崩れ落ちる儚げな姿態《したい》。湿った土の上に転がったロネは「うぐぐ」と苦痛のくぐもり声でうめき、背中の痛みをどうにか耐えながら当惑の顔を上げた。


「あ!」


 その途端、ロネの瞳が大仰《おおぎょう》と見開く。
 ご馳走である馬の側に身丈五メートルはあろう巨大黒猫が一匹、威風堂堂と立ちはだかっているではないか。そう、ロネは先ほどこの巨大黒猫に猫パンチを食らわされたのだ。


「また、お前ー!」
「にゃご――――!」


 悔しさからロネが喧喧と怒号《どごう》すると、巨大黒猫は金に光る三白眼をロネにぎろりと向けてけたたましく咆哮《ほうこう》した。耳障りな濁声《だみごえ》ならぬ猫声に、ロネの直立耳がびりびりと顫動《せんどう》する。


「うるさーい! それ、ボクが先に見つけんたんだぞ! この泥棒猫!」


 ロネも負けじと巨大黒猫を睨みつけ、「ガルルル!」と喉笛を唸らせると、姿勢を低くして爆発よろしく逆立った毛深い尻尾を高く持ち上げ臨戦体勢をとる。そうして士気高ぶるまま目下《もっか》の宿敵――巨大黒猫に噛みつく勢いできゃんきゃん吠え立てた。


「いっつも横取りばっかして!」
「にゃごにゃご!みゃごみゃーごぉぉぉおっ!!」
「なんだと、こんにゃろうっ! 後悔しても知らないぞ!」


 気炎万丈の口喧嘩は収拾つかず、ロネは叫喚《きょうかん》すると同時に突撃――どこまでも不遜な闖入者《ちんにゅうしゃ》、巨大黒猫に怒りの鉄拳を振りかぶった。対して巨大黒猫もたくましい豪腕を唸らせ、己より小さな敵を迎え撃つ。直後、既視感《きしかん》を思わすあの激しい音韻《おんいん》が高々と響いた。巨大黒猫の太くて大きな掌が、突進してきたロネを呆気なく払い飛ばしたのだ。

 二度目の不幸にロネは「きゃひひんっ!」と叫んで地面へと落下、そのままごろごろ転がり柔らかい土砂に顔を沈めてようやく止まる。かくして、ご馳走争奪戦はめでたく幕を下ろしたのだった。


「にゃごぉぉぉ――っ!!」
「うぐぐぐ……!」



巨大黒猫は勝利の雄叫びを一つして、戦利品である馬を口にくわえるとあっさりその場を退散した。その後、大地に転がっていたロネがふらふらと上半身を起こし、土がついた顔をぶんぶんと横に振りって顔面に張り付く泥を適当に払った。


「くそー! 今日もあいつに負けたぁー! ……っう? んん? なんだ……? あれ?」


 いつものように巨大黒猫に敗北してしまった負け犬のロネは、地面に残った妙な跡にふと気づいた。それは馬が倒れていた場所から近くの草むらへ点々と続く見慣れない足跡。大きさと形状からしても森の動物のものではない。ロネはやや戸惑ったものの、興味にひかれて不注意にも足跡へ近づいていた。


「くんくん……。んおぉ? これ、血の臭いだ……」


 足跡からはひどい血の臭いがした。
 ロネは「むー?」と訝しげに首をかしげて考察したが、活動容量が少ないロネの脳みそはすぐに働くのを止めてしまう。


「まあ、いっか! とりあえずこれを追ってみよう! ご馳走と一緒にいたなら、ご馳走かもしれないし!」


 いさぎよく推理を諦めたロネは、次に警戒心よりも先に立った好奇心に従って独り合点。ご馳走かもしれぬ血生臭い足跡の持ち主を意気揚揚と追うことにしたのである。




*  *  *





 血生臭い足跡が続く草むらには、さだかに生き物の通った形跡があった。すでに踏み荒らされた足元を確認しつつ、ロネは自分の背丈ほどある青草をかきわけて突き進んで行った。


「おお!!」


 やがて、ロネの視線の先に目当てのものと思しき物体が現れた。ロネは躊躇《ちゅうちょ》なく謎の物体の隣に駆け寄り、腰をかがめてそいつを覗き込む。見つけた物体は人一人分の大きさがある黒い塊で、表面は毛深くもなく、やや平滑《へいかつ》。形は長細くて若干凹凸《おうとつ》がある――。見た目だけではそれ以上のことはわからなかった。


「なんだ? これぇ?」


 怪訝にぼやいたロネが不用意に黒い塊《かたまり》を片手でぽんぽんと軽く叩くが、黒い塊は動く気配もない。


「うー? あったかい……?」


 触れてわかった。黒い塊は朝露でぐっしょりと濡れていたが、内からほんのりと温かい。やはりこれは生き物かもしれない。そして動かない、ひどい血の臭いがする、ということは――死んで間もない動物か?


その途端、ロネの腹が空腹を訴えるように鳴って、口の中によだれがみるみる溢れ湧く。


「ごは――んっ!!」


 疑うことなく嬉々と叫んだロネは謎の黒い塊にはつらつと飛びついた。無遠慮に黒い塊へ爪を立てて皮らしき表面をかきむしり、鋭い犬歯を大仰と剥《む》き出したロネがご馳走目がけてかぶり付こうとした――まさにその時である。


「!?」


 ずるり、と黒い塊の皮らしきものがロネに引っ張られてずれたのだ。ぎょっと目を見張ったロネがすぐに手を止めてその様を凝視する。


「えー……???」


 どうやら皮だと思っていた黒い表面は、黒色の厚い布だったようだ。その布に包まった中身が、ロネによって判然《はんぜん》と晒《さら》されたのである。

 くせのない金色がかったブラウンの短髪、眉目秀麗の顔立ちにある双眸《そうぼう》は閉じられており、年の頃は十代後半とまだ若い。その生き物は血まみれの痛んだ布の服と履きつぶしたブーツを装備していた。

 ロネはそれらを改めて観察し、そして気付く。死んでいると思っていたその生き物はとても浅いが確かに呼吸をしているのだ。ロネの黒い眼が次第に凍りついていく。三角の耳を後ろに引いて両側へつき出すその仕草は、食事にありつけなかった悲愴《ひそう》では無く、明らかに危惧を覚えたもの――。


「う、うおおおーっ!!!」


 刹那、悲鳴を上げておののいたロネがはずみで思い切り尻もちをついた。
真っ青な顔をしたロネの奥歯がうるさいほどがちがちと震えて止まらない。好奇心旺盛で楽観的で無思慮なロネさえ知っている――。
それはこの世界の常識。
これはこの世でもっとも恐ろしい生き物。




「人間……んがぁ――っ!!!!」




 瞬時に思考を巡ったのは、 ”殺される!” という危難の呼号《こごう》。ロネの舌が、身体が、恐怖で麻痺する。それでも善処に違いない退避の意気を潜在意識がどうにか駆り立てた。ロネは仔犬のように震えながら四つん這いで鼻をひゅんひゅんと切なく鳴らしつつ両耳を後ろへ伏せて尻尾を垂れ下げ丸め込む。見るからに情けない格好だが、それでもゆっくりと懸命にその場から逃げ出そうと試みる。

――ところが、生きるか死ぬかというこの非常時にロネははたと思い止まってしまったのだ。


「――あ。でも、こいつ……、ずっと動かないし、血の臭いもひどいし、もうすぐ死んじゃうかな?」


 無情な予想を神妙にぼやいたロネの四肢はいつの間にか静止していた。


「も、もうすぐ死んじゃうなら、怖がらなくても平気? ……そ、そうだ! も、もしかしたら食べ物を持っているかもしれないし、そ、それを調べてから逃げても遅くないはず!」


 この強気を装う独白《どくはく》には、未だ拭いきれぬ人間への恐怖が潜んでいたが、肩越しに人間へ振り返ったロネの黒い瞳は、恐怖とは違う想いを秘めてたおやかに揺れていた。



−序章・白い森/おわり− 


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